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越智先生と田主丸の人々(昭和36年)

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昭和30年代の巨峰

茨の道


 静岡県中伊豆町の小高い山の上に、「大井上理農学研究所」はありました。主である大井上康先生は世界各国からぶどう品種を集め研究に力を注いでいた民間の栽培学者で、欧州各国に遊学して記した『葡萄の研究』は世界的名著といわれています。昭和11年、先生は植物の成長の段階にあわせ手入れや施肥をするという「栄養週期説」を提唱しますが、現在では栽培学の基礎となっているこの学説も、民間学者であったがゆえに当時の日本では、あまり重要視されませんでした。
 一方、大井上先生は、何とかして日本のように雨の多い土地でもできる欧州種のような高品質の品種を作り出そうとしていました。交配した一組に、日本に古くからある石原早生に、オーストラリアのぶどうで世界一の巨大粒といわれるセンテニアルをかけたものがありました。船便での苗の輸入、幾度もの失敗。苦労の末に誕生した苗は大きく成長し、そして昭和14年、はじめて一房をつけ、大井上先生を驚喜させたのです。その新品種は「巨峰」と名付けられました。
 ところが、ようやくこの世に生を受けた巨峰を待ち受けていたのは、戦争という悲劇でした。
 ひどい食糧難に陥った日本では農作物は主食の米、麦に重点がおかれ、果樹亡国論のような暴論が起こります。先生たちは、苗を必死の思いで守り通し、巨峰は奇跡的に戦火をくぐり抜けます。しかし、戦後の混乱の中で、大井上先生の学説は、官の色あいが強い農学界から厳しく批判され、巨峰も、その素晴らしさを世に大きく叫べば叫ぶほど、花が落ち実がなりにくく栽培価値はないといわれ続けたのです。

大井上先生が田主丸に来る


 時を遡って、昭和21年、「全国食糧増産同志会」という民間団体が結成され、栄養週期説を米、麦の増産に役に立てようという運動が全国で盛り上がっていました。会員数は20万。全国各地に支部が誕生し、旧田主丸町の青年たちが中心となって耳納連山北麓にも同志会浮羽郡支部(浮羽郡栄週研究会)が組織され、栄養週期運動に賛同する人達が熱心に学んでいました。
 昭和23年、栄週会員の熱心な求めに応じて、大井上先生が、車椅子を押して田主丸にやって来ます。田主丸小の裁縫室いっぱいに集まった人々はみな熱心に耳を傾けました。学校で習うこととは違う実践論。初めて聞く先生の話にみんな非常に感銘を受けたといいます。しかし、大井上先生が田主丸の地を踏んだのは、これが最初で最後でした。
 昭和26年、大井上先生は自室で門下生のひとり越智通重先生と最後までぶどうの話をしながら静かに息を引き取りました。後に、大井上先生の記念碑に「何より確かなものは事実である」と書いたこの越智先生こそ、後に田主丸に巨峰の苗をもたらしたその人でした。

越智先生と田主丸の出会い


 越智先生は、その後、小倉の農場に勤めていましたが、日本理農技術協会の拠点だったその農場に、浮羽郡栄週会が研修生として送り出した田主丸の青年たちが、越智先生と出会います。昭和28年のことでした。
 この頃、日本の農業も、米や麦など主食一辺等の時代に終わりを告げ、果樹や畜産に目が向き始めていました。「もはや戦後ではない」と経済白書が謳ったのは昭和31年、時代は高度経済成長時代にさしかかっていました。研究会も稲作中心でしたが、会員の中には、将来を見越して柿の栽培をはじめる人も出始め、稲作はもちろんのこと、果樹の専門家だった越智先生を、研究会は、時折招くようになっていました。
 「越智先生の指導を受け、それまで稲作中心農家だったが、長男の希望と、私自身、将来の農業を見透して、水田全部を売却し、柿畑1ヘクタールを購入し、そこに移り住んだ」と会員のひとりは語っています。越智先生に出会った会員たちは、高い果樹栽培技術を身につけることで、子どもたちにも農業を継がせることができるという未来への一筋の光を見いだしていたのです。
(第二章へ続く)