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九州理農研究所

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在りし日の越智先生

研究所をつくりたい


 昭和30年、「越智先生をこの地に招いて、自分たちの研究所をつくろう」という、ある会員の「一言」が、会員達の胸に大きく響きます。研究会は何度も話し合い、やがて、研究所の設立は、日を追って現実味を帯びてくるようになりました。越智先生自身も、度々この地を訪れ、耳納連山の景観と人情の厚いこと、そして未墾地の多いこの土地と砂礫質の土壌に、果樹栽培の適性を見い出していました。
 そして、越智先生は、ついに田主丸へと移住し、会員たちの指導をしていくことを決意したのです。喜んだ会員たちは早速、研究所を作る準備を始めました。
 若竹屋十二代目林田博行氏から若の寿農場の土地の提供を受け、研究所の建設が始まったのは、昭和31年1月。整地も自分たちで行い、建物は旧家を解体してオート三輪で運び組み立てました。47名の会員たちは資金を出し合い、米や野菜などを調達し、三ヶ月をかけ、ほとんど手作りといっていい研究所は完成しました。
 こうして日本では例のない、農民の、農民による、農民のための研究所が出来上がったのです。この研究所は、「九州理農研究所」と名付けられ越智先生が所長として迎えられました。
 研究所は、小じんまりとしていましたが、中央に講義室、それに研究室、寄宿舎一住居などが設けられ、畑1.5ヘクタール、柿畑70アール、水田20アールの農園を有していました。越智先生の他に助手一名、研究生4名。そして、昭和31年4月19日、水縄山麓のあたたかい山懐につつまれたこの研究所で、ささやかで、精一杯の設立祝賀会が催されたのです。
 この日のために案内を出した地元の町村長や農協長などの名士の姿はなく、ただ一人駆けつけたのは、東京にある日本理農協会の恒屋棟介理事長だけでした。しかし、会員たちは、誰も来ないことなど気にもせず、自前の研究所落成の喜びに酔い、夜を徹して語り合う声が、耳納の山並にいつまでもこだましていました。

未知なる果実


 研究所は、会員たちの心をも支える場所となってきます。研究所には、いつも入れ替わり立ち替わり人が来ては話し込んでいました。会員たちは、雨が降ったり暇な時間が出来ると、山に登ってくるといって研究所に出かけ、栽培上の問題点や研究課題を議論しあいました。研究所は学資などを徴収するようなこともなく、八女郡や竹田市、遠くは台湾、ブラジルからも来る研究生は、みんな自由にのびのびと学び旅立って行きました。
 越智先生は、郷里の愛媛から家族を呼び寄せましたが、研究生も寄宿している研究所では、米や野菜は会員が持ち込んでも、収入はわずかしかありませんでした。研究所を維持していくために最初に野莱を作りましたが充分なお金にはならず、次にスイカをつくりました。出来たスイカは評判になり、会員たちが手分けして箱につめ、自転車に乗せて大川あたりまでも持っていったといいます。
 しかし、研究所の台所事情はそれだけでは、とても間に合わなくなってきていました。柿は新植して一年目。まだかなりの年数が必要でした。「巨峰」が会員たちの目にとまったのはこの時です。これまで庭先に一、二本ずつ植えていた会員もいましたが、収益をあげるまでには至っていませんでした。その頃、全国各地で栽培に取り組んでいましたが、成功した産地はありませんでした。巨峰はまだまだ、未知なる果実だったのです。経済事情がきっかけとはいえ、巨峰の栽培に研究施設で取り組もうとしたのは田主丸だけでした。
 巨峰は雨の多い西南暖地では育たないという批判めいた囁きも聞こえてきました。しかし、「それは承知の上。栄養周期説による栽培なら出来る」と、会員たちの心は自信と気迫に満ちあふれていました。今まで、栄周一派と陰口をたたかれた会員たちのプライドにかけても、この大井上先生の巨峰を成功させねばならなかったからです会会員たちは、真剣でした。
(第三章へ続く)