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万博のテレビ中継で賑わう玉山(昭和40年代)

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巨峰狩りの風景(昭和40年当時)

巨峰を植える


 昭和32年、九州理農研究所は巨峰の導入を決め、熊本のくずめブドウ研究所までオート三輪を走らせて巨峰の苗200本を購入し、研究所を含めて5名の会員が植え付けることになりました。合計栽培面積は、約1ヘクタールでした。こうして、昭和32年4月。田主丸で初めて巨峰の開植がなされたのです。
 その3年後、巨峰は、越智先生の指導のもとで、見事な実をつけました。
 「こんな大きくて甘いぶどう、食べたことねえ。」一度その実を味わった田主丸の人々は、その感動が忘れられず、栽培へとかりたてられたといいます。台木が会員の接木によって増やされ、地元の苗木業者が巨峰苗をつくり出しました。田主丸が植木・苗木発祥の地であったことも巨峰にとって幸運なことでした。田主丸巨峰会が結成され、昭和36年には、栽培者は80名近く、総面積は10ヘクタールにも達したのです。
 さらに、昭和36年、研究所は「果実文化協会」を立ち上げ、会員制度によって毎月『果実文化』という会誌を発行します。その使命は技術の提供によって、経済力のある果樹農家を育てることにありました。購読者は、九州一円はもとより、遠くは北海道、韓国、台湾まで広がっていました。栽培資料が乏しく専門誌のほとんどが東京の大都会で発刊されていた頃に、筑後の片田舎ともいえる田主丸から、それらに勝るとも劣らない専門誌が発刊されていたのです。
 こうして田主丸は名実ともに、巨峰の産地となっていきましたが、また思わぬ波乱が待ち受けていました。

ぶどう狩りの誕生


 時を遡って、昭和21年、「全国食糧増産同志会」という民間団体が結成され、栄養週期説を米、麦の増産に役に立てようという運動が全国で盛り上がっていました。会員数は20万。全国各地に支部が誕生し、旧田主丸町の青年たちが中心となって耳納連山北麓にも同志会浮羽郡支部(浮羽郡栄週研究会)が組織され、栄養週期運動に賛同する人達が熱心に学んでいました。
 昭和23年、栄週会員の熱心な求めに応じて、大井上先生が、車椅子を押して田主丸にやって来ます。田主丸小の裁縫室いっぱいに集まった人々はみな熱心に耳を傾けました。学校で習うこととは違う実践論。初めて聞く先生の話にみんな非常に感銘を受けたといいます。しかし、大井上先生が田主丸の地を踏んだのは、これが最初で最後でした。
 昭和26年、大井上先生は自室で門下生のひとり越智通重先生と最後までぶどうの話をしながら静かに息を引き取りました。後に、大井上先生の記念碑に「何より確かなものは事実である」と書いたこの越智先生こそ、後に田主丸に巨峰の苗をもたらしたその人でした。

越智先生と田主丸の出会い


一粒15グラム、直径3センチの大粒、そして糖度20度の「ぶどうの王様」。「ピンポン玉ぐれえあった」「ビワの実んごとある」。巨大な粒を見て人々は驚きあきれ、巨峰はたちまち評判となりました。しかし、民間の学者が開発した品種ということもあって、傷みやすい、粒落ちが早いと市場から閉め出されたのです。
 悩んだ挙げ句、園主たちは、消費者への直接PRに打って出ます。
 市場から相手にされなかった巨峰をひっさげて、テレビ局、ラジオ局、バス会社と、思いつく限りのところへでかけていきました。最初は怪訝そうだったバス会社も実物を見ると、息をのみ、企画に身を乗り出してきました。こうして、バスツアーが実現し、巨峰が知れ渡ってくると、人々は噂の巨峰を一目見ようと田主丸へどっと押し寄せ、自家用車と観光バスの列は、延々と筑後川橋や両筑橋まで続き、山辺の道は大渋滞となりました。
 この頃のぶどう狩りは、いってみれば巨峰見学会でした。お客さんはまずゴザなどに座り、園主から「巨峰のいわれ」の説明を受け、試食をつまみ、用意された巨峰を土産として持ち帰るというスタイル。それでも巨峰狩りは洒落たレジャーとして空前のブームとなり、こうして全国初の「観光農園ぶどう狩り」が誕生したのです。
 苦境の中で実を結んだ、知恵の結集という一房。それが「ぶどう狩り」でした。

越智先生との別れ


 そんな折、熊本県荒尾市では三井鉱山による一大レジャーセンターが企画されていました。そのセンター内に広大な巨峰園をつくる話が持ち上がり、越智先生に技術協力の話しが持ち上がります。研究所の維持と生活の困窮、そして家族の将来。先生の心を痛める問題は多すぎました。荒尾と田主丸を行き来する生活が数ヶ月続いた後、「ぶどう狩り」でにぎわう町を見届け、昭和37年、越智先生は長年住み慣れた研究所をあとにします。
 酒が好きで、数々の逸話を残した越智先生。生活に困り明日食べる米がなくても、道ばたの可憐な花を見つけては「美しく咲いているものは、美しい」としきりに感心していた先生の心は、いつも植物にありました。 その先生に「農業試験場などの指導は受けぬというつむじ曲がりばかり」と言わせた会員たち。
 「百姓が米づくりをやめて何をするか」という周囲の声をものともせず、「二、三年やってみてから」という先生を「二、三年も遅れるのはいやだ。一緒にやって欲しい」と説き伏せ、巨峰栽培に挑んだ人々は、みな四十代や五十代。いわば第二の人生を賭けた挑戦でした。
 昭和56年5月、越智先生は64歳で、その波乱に満ちた生涯を終えました。「越智先生あっての研究所だった」と当時を懐かしんだ会員のほとんどもこの世を去り、今は二代目、三代目が、その技術と園を受け継いでいます。
 巨峰の町田主丸。その誕生のかげには人々の思いと努力、そしてなにより数奇な出会いがありました。西日本巨峰会員700名によって建てられた越智先生をたたえる碑が、ぶどう畑広がる田主丸をただ静かに見守っています。